丸山貫長(まるやま かんちょう) 略歴譜

 

1843年(天保14年)

長野県安曇野市豊科の熊倉に生まれる。
幼名を伊太郎、法名を公雄(こうゆう)と称し
その他にも虎洞・虚心・堅海・精進山人などと号す。

1851年(嘉永4年)
     8歳

江戸に出て浅草、大護院(1872年廃絶)の住職道本について書を学ぶ。
※道本・・(住職としては1768-1857):書家として活躍。1857年8月28日死去。90歳。

1858年(安政5年)
     15歳

長野県南安曇郡にあった村、西穂高村牧の真言宗満願寺で公忠和尚に従って
4年間修業をする。

1861年(文久1年)
     18歳

1879年(明治12年)までの19年間、大和の長谷寺で修学、主として塔頭(たっちゅう)寺院である能満院の海如和尚に就いて研鑽(磨き深める)する。

1874年(明治7年)
     31歳

長谷寺普門院の住職となり、訓導を拝命する。 
※訓導・・旧制小学校の正規の教員の称。現在の教諭に相当

1876年(明治9年)
     33最

廃仏毀釈のため廃寺となった「満願寺」を再興するため、観音講社を設立する。
※廃仏毀釈・・明治維新の神仏分離のよって起こった仏教破壊活動。
仏教を排斥し、寺などを壊すこと。

1878年(明治11年)
     35歳

大和の室生寺に入る。

1882年(明治15年)
     39歳

室生寺住職を拝命する。

1889年(明治22年)
     46歳

法隆寺にて九面観音を彫刻する。
明治21年5月から関西の古寺宝物調査をしていた岡倉天心(当時26歳)と出会う。
岡倉天心は丸山貫長を「生きた仏教精神のモデル」と感得し求道の師と仰いだ。

1894年(明治27年)
     51歳

室生寺住職を辞し、以後10年間、大和山城の諸寺院で務める。

1905年(明治38年)
     62歳

大蔵寺住職となり、三等司教を拝命する。

1920年(大正9年)
     77歳

大阪府観心寺の国宝大随求菩薩像を五十余日かけて写す。

1927年(昭和2年)
     84歳

大和国大蔵寺にて亡くなる。
  • 安曇野市 ゆかりの先人たち(HP)を参考に作成させて頂きました。