丸山貫長の功績

国宝 長谷寺銅板法華説相図を守る

 

 

長谷寺銅板法華説相図(はせでら どうばん ほっけせっそうず)

 

古くから長谷寺に伝わる 縦83.3cm、横75.0cm、厚さ約2cmの比較的大型の銅板です。

 

奈良県桜井市の長谷寺に伝わる7世紀の仏教工芸品。

銅板の表面に『法華経』見宝塔品に説かれる宝塔出現の光景が図相化されている。
銅板の下方には銘文があり、造立の由来などが陰刻され、その文中に、「敬造千仏多宝仏塔」とあることから、本銅板を千仏多宝仏塔とも呼ぶ。
1963年(昭和38年)7月、国宝に指定された。
指定名称は銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)。所有者は長谷寺で、奈良国立博物館に寄託保管されている。
ウィキベテアより)

 

長谷寺の宝物であるこの銅板を火災から救い出したのが丸山貫長です。

 

明治9年3月、浮浪者の焚き火が原因で長谷寺の三重塔が火事にあい、塔は消失してしまいました。
その時、塔内に安置してあったこの銅板を、当時の学僧の一人であった丸山貫長(当時33歳)が、
火災と知るや 一気に馳せのぼり 猛火の中に飛び入り、
重量のある銅板を一人で持ち出しその難を逃れました。

 

1876年の火災

(三重塔は)明治9年に俘浪者の焚火が原因で焼失した。
以前からこの中には「千仏多宝塔銅板」(※銅板法華説相図のこと)が安置せられていたのであるが、
この炎上に際して偶然、在山していた画僧として著名な丸山貫長師が、単身炎の中にとびこんで、この重量のある銅板を抱えて塔外に救出したという。
ウィキベテアより)

 

その事を記した故山本雨宝(やまもと うほう)氏(※私の叔父であり丸山貫長の長男)の著書があります。

 


『飛鳥への憧憬』 山本雨宝編

 

そこにはこう記されています。

 

 

『長谷寺法華説相図銅板のこと』

 

長谷寺の三重塔が 明治九年三月消失の時、
此銅板を塔内に安置してあったのを、当時の学僧の一人 
丸山貫長(筆者の父、当時三十三歳の時) 火災と知るや
一気に馳せ登り、猛火の中に飛び入り 一人で持ち運び難き 重量のものを
持ち出して 漸く〈ようやく)その難を逃れたのだと聞かされたことがある。

 

この銅板の貴重なことを説くと同時に、此の功績を讃えなければならんにも
不拘(※にも関わらずの意味)一人も口にするものがないのは不思議とせざるを得ない。
なぜ抹消しなければならないのか。
この逸話を忘れざる間に記しておく。

 

『飛鳥への憧憬』より 山本雨宝著


 

故雨宝氏は飛鳥寺の長老であり、
八雲琴伝承の人間国宝でもありました。

 

 


山本雨宝氏 
※写真は「日々好日」のホームページよりお借りしました。

 

 

奈良県 室生寺(むろうじ)復興に尽力

 

丸山貫長は明治11年に室生寺に入り 明治15年頃に住職となりました。
その後、明治27年に住職を辞するまで約16年間室生寺で務めました。

 

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく※仏教を排斥し、寺などを壊すこと。明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動)があり
日本の寺が荒れていた時代、室生寺も荒れ果て、どん底にあったと言います。
その室生寺の復興に尽力したのが丸山貫長でした。

 

のちに、私の父(伊藤 教如)(いとう きょうにょ)が室生寺の執事として40年ほど奉職しておりました。
その在職中に出版された本にそのことが記されています。

 

 

古寺巡礼 奈良 『室生寺』

 

 

そこにはこう記されています。

 

 

最後に、明治の困難な時代に荒れた室生寺の復興に尽力された 当時 第二十三代、丸山貫長住職について少し書き添えておきたい。

 

丸山住職は天保十四年(1843年)十二月六日、信州南安曇郡高家村大字熊倉、今の長野県松本市 に丸山源八郎、茂夫妻の長男として生まれられた。

 

幼少より神童のほまれ高かったという。

 

十三歳の時に書道の師で幕府祐筆の道本憲寿の死に直面して 無常を感じられ、安政五年(1858年)十五歳の時に 父に許されて 真言宗満願寺に入って 剃髪、仏門に入って四年後の文久二年(1868年)大和国長谷寺塔頭能満院の海如阿闍梨に教えを請うて、約十二年間 本格的な修行を積み、初瀬普門院の第八世住職に迎えられ、本堂の復興に尽力された。

 

室生寺の住職になられたのは明治十四、五年頃であるが、この当時、室生寺は衰微のどん底で、ご飯を食べる箸もなかったといわれ、ずいぶん苦しい生活であったと推察されるが、そうした中で住職は室生寺の復興に力を尽くされ、荒れた堂塔の修復、仏像の修理など、数々の功績を残された。

 

現在、住職の書かれた棟札(むなふだ)や諸々の記録が保存されている。

 

特に仏像の修理技術は実に巧妙で、そのために自作の新しい仏像と古い仏像をすり替えたなどと、よからぬ噂もあったほどである。

 

他人が良い成績を上げると嫉妬を抱き、悪いことをいいたくなるのは、人間の浅ましさというほかはない。

 

丸山住職の日常生活は、時間を無駄にすることなく、物を大切にし、どんな物でも粗末にせずに利用されたそうである。

 

また、仏法のことはいうに及ばず、絵画・彫刻・書 など、いずれにも神業かと思うほどに優れて 「今大師(いまだいし)」ともいわれ、立派な遺品が各所にたくさん遺っている。

 

ただ残念なことに弟子には恵まれず、明治三十七年に大蔵寺に移って隠れ住み、昭和二年六月七日、八十四歳で遷化(せんげ・・高僧が死ぬこと)された。その晩年は不遇であったが、室生寺復興に注がれた努力には言葉に尽くせないものがあり、今日の室生寺を考える時、その基礎を築かれた丸山貫長住職の存在を忘れることはできないのである。

 

伊藤 教如著


 

 

大和国室生山一覧之図

 


当時の丸山貫長が作成した木版刷り

 

 

 

 

 


土門拳の写真集にも掲載

 

本図は、明治十五年頃、当時、室生寺の住職(室生山第二十三世)をつとめていた丸山貫長氏が、寺伝資料などを参考にして自ら版木を彫り、刷って作成した木版刷りをもとにしたものである。ここに描かれた堂塔などのうち、すでに現存しないものも多い。

 

※女人高野室生寺(土門 拳 写真集)より

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