祖父 丸山貫長の面影を綴る

 

私(伊藤教純)は 昭和17年の生まれなので 残念ながら丸山貫長には会えておりませんが
祖父として 僧侶として
常日頃から尊敬しており、面影を今も追いかけております。

 

いつか、祖父のことを何かの形で世に出したいと思いつつ
なかなか叶わないまま 今になりました。

 

このサイトで、丸山貫長について
今の私が調べたこと、聞いたことなどを
家族の協力を得てゆっくりと綴っていきたいと思います。

 

 

※孫の私が調べたものですので確実な情報でない場合があります。
 また、何かわかり次第追加、編集等行いますのでご了承願います。

 

 

 

 

奈良県大和高田市土庫

弥勒寺住職

 

伊藤教純 (昭和17年6月15日生)

 

 

丸山貫長の生い立ち

 

丸山貫長(まるやま かんちょう)は長野県安曇野で生まれました。

 

(父・・源八郎  母・・茂(シゲ)の4人兄妹の長男として)

 

 


丸山貫長の生家

 

1843年(天保14年)12月6日 誕生

 

1927年(昭和2年)6月7日 永眠 (享年84歳) 
※戒名は「大阿闍梨耶貫長和尚」(だいあじゃりやかんちょうわじょう)

 

明治維新が起き、また廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)もあった
 大きな変化の時代に仏教と芸術に生きた人です。

 

 


丸山貫長 写真

 

 

 

 

幼名を伊太郎と言い 幼くして書画の才が秀でておりました。

 

8歳の時に「万年福随」と書かれた書が 掛け軸として今も長野県安曇野市にて地域の方によって大事に残されております。

 


丸山貫長 8歳の書

 

 

また、丸山家のお墓がある安曇野市倉熊公営墓地の入り口には
同じく8歳頃の貫長が書いた「道祖神」という文字を彫った文字碑があります。

 

※丸山貫長の墓は別の場所にあります。

 

 


丸山貫長 8歳頃の書をもとに彫られた文字碑

 

 


文字碑の拓本 8歳とは思えない力強さである

 

 

 

 

2017年 家族で安曇野を訪れました。
丸山貫長の生家のあった辺りは今は田んぼとなり緑が広がっておりました。

 


丸山貫長 生家の辺り 現在

母ヒサとおちょん

 

私の母は奈良県宇陀市栗野 大蔵寺で育ちました

 

 

伊藤ヒサ・・・大正3年12月22日生まれ
       平成25年9月27日 100歳逝去

    母・・伊藤ヒサ

 

 

ヒサの父・・・丸山貫長  

 

ヒサの母・・・トヨ 
       明治10年12月10日生まれ
       昭和49年9月23日 88歳逝去

 

 

兄妹は7人(男4人 女3人)で、ヒサは三女の末娘でした(伊藤家に嫁ぐ)

 

 


貴重な家族写真

 

左から・丸山貫長 丸山貫長の妻(トヨ)
・トヨが抱いている赤ちゃんは三男
・真ん中で立っているのがヒサ
・その右が長女
・その横で立っているのが次女(二つ上の姉) 
・一番右が長男

 

 

 

母から聞いた祖父の面影

 

母は丸山貫長のことを「おちょん」と呼んでいました。

 

 

 

「おちょんは優しくて子煩悩なお父さんやったよ。
私は木登りしたりお寺の山で遊んだり、
お猿さんみたいに飛び回ってのびのびと育ったんよ。」

 

 

「二つ年上の姉とはいつも一緒に遊んで双子みたいに育ってね。
おちょんが東京へ行くとき、姉と私を夜汽車に乗せ
『日光と月光や』と言って両脇に私と姉を抱かえて連れて行ってくれたんよ。」
とよく思い出話をしてくれました。

 

 

「おちょんは皆から「今弘法」(いまこうぼう)と呼ばれ、いつもよれよれの衣を着て
慎ましい生活をしていて
東京へ講習に行く時も、よれよれの衣を着て
門番に「どちら様ですか」と止められたりしていたよ。
まさか、講師には見えなかったんやろうね」

 

嬉しそうに、誇らしげに話す母。
きっと母にとっておちょんは自慢の父親だったんだろう。

 

 

 

道端の大根の葉を拾って持って帰って来たり
草木を燃やした灰と溜めた雨水で洗濯をしていたり
そんな質素な生活だったらしい。

 


いつもよれよれの衣を着ていた貫長

 

 

 

 

おちょんの羽子板

 

 

子供の時に父親に手製の羽子板を作ってもらったのが、母にとって思い出の一品である。

 

この羽子板は古いお盆の板を利用して作ったもので
小ぶりで軽く、子供でも持ちやすいように作られている。

 

 

表には鏡餅を持った女の子の絵

 

 

裏には「はねつくや としのはじめの おなごども あがればをちる をちればあがる」
  ヒサ

 

と母の名前が彫られている 

 

 

 

 

 

嫁入りの時に貰った弁財天

 


丸山貫長 作

 

 

母(ヒサ)が嫁ぐとき、母親から貰った おちょん(父)が描いた弁財天です。
本紙自体は小さく、葉書大の大きさですが、色彩も綺麗に残っています。

 

母にとって父親の大事な形見で、ずっと大切にしていました。

 

後に私(教純)が表装をしました。

 

 

 

 

100歳まで大往生した母。

 

もっとおちょんの話を聞いておけば良かったと

 

今更ながら思います。

 

 


  晩年の母(ヒサ)

  • 丸山貫長の記事について

 

随時更新・編集を行います。

 

私が個人的に調べたり聞いたりしたことを家族の協力を得て綴ったものです.。

 

また更新はゆっくりペースで行います。